こんにちは。哲学医の小森です。
今日は、私が30年間、医療の最前線で抱き続けてきた、一つの、根源的な問いについて、お話ししたいと思います。
それは、
「人は、いつか必ず、この世を旅立つ。それなのに、なぜ、私たちは、命を救う必要があるのだろうか。」
という問いです。
医療の「正義」と、一人の医師としての「葛藤」
小児外科医として、目の前の小さな命を救うことに、必死に邁進する日々。 それは、医師として、疑う余地のない「正義」でした。
しかし、その正義を胸に抱きながらも、私の心は、常に、解けない問いに揺さぶられていました。
一生懸命に医療を施す。けれど、それでも、どうしても救うことができない、小さな命がある。現代医療の、限界。 そして、「一流への道はかくも遠いのか」と、自らの技量に、もがき続ける、自分自身の、限界。
この「治す」か「治らない」かという結果だけを見つめていると、時に、心が、深い闇に囚われそうになるのです。
医療の本当の価値は、本当に、そこだけにあるのだろうか、と。
「無駄足」の中にこそ、物語は生まれる
そして、その問いの向こう側には、いつも、患者様とそのご家族の、もう一つの物語がありました。
治療が思うように進まず、もどかしい思いをされていらっしゃるご家族。どうしても、そういう病気もあれば、そういう時期もあります。しかし、私が本当に心を動かされるのは、結果そのものではありません。
たとえ、その日の通院が、すぐには結果に結びつかない、「無駄足」のように思える日であったとしても。
それでも、諦めずに、我が子のために、必死に、一歩を踏み出す、そのご両親の「姿勢」。
医師である私を信じ、共に医療を進めようと、懸命に治療に向き合う、その、ひたむきな姿。
そのプロセス自体が、すでに、一つの、かけがえのない「価値」であり、互いの心に、温かい「良い思い出」を刻み込んでいるのです。
ただ効率よく診察を受けて、おしまい、では、人生はあまりにも、薄っぺらくなってしまうのではないか。私は、最近、そう強く感じるのです。
「思い通りにならない経験」から生まれる、本当の優しさ
私自身、病院での経験、地域での経験、そして、スタッフと共に学び合う環境の中で、一つの確信に至りました。
それは、「思い通りにならないこと」は、生きていく上で、決して無駄にはならない、ということです。
むしろ、それこそが「本当の優しさ」を生み出す、かけがえのない土壌なのです。
自らの技量に悩み、もがいた経験を持つ医師だからこそ、同じように不安の淵にいる患者様の心に、寄り添うことができる。
子育てが思い通りにいかず、涙を流した夜がある親だからこそ、同じように奮闘する、別の親の肩を、そっと抱くことができる。
この、痛みを経て生まれた優しさこそが、人から人へと、温かい光のように、連鎖していく。これこそが、私たちが、このどうしようもない世界で見出すことのできる、最も確かな、希望なのだと、私は信じています。
そして、その体験は、綺麗な時間だけではありません。
うまくいかない、という、もどかしい気持ち。悲しい気持ちや、どうしようもない不安な気持ち。
それらを、見て見ぬふりをするのではなく、しっかりと、深く、感じきること。それもまた、必要な時間なのです。
なぜなら、その深い谷を知って初めて、私たちは、その反対側にある、息をのむような喜びや、嬉しさ、そして、心からの充実感という、山の頂に、たどり着くことができるのですから。
そうです。嬉しいことも、悲しいことも。うまくいったことも、いかなかったことも。
すべては、あなたの人生という、壮大な物語を織りなす、かけがえのない「ピース」なのです。
私の哲学:医療とは、「感動」を演出する、聖なる舞台である
だから、私の哲学は、ここにあります。
医療とは、ただ命を救う、技術ではない。
それは、人生という一度きりの協奏曲(コンチェルト)で、誰もが奏でる、喜び、悲しみ、そして「思い通りにならない」という、ありのままの音色に、深く耳を澄まし、
その不協和音さえも、美しい「響き合い」へと変え、
そこから生まれる「本当の優しさ」という、最も尊いメロディを、共に「演出」していく、聖なる舞台(アトリエ)そのものである。
明日という日が、誰にとっても、約束されているわけではありません。
だからこそ、私たちは、今日、この一瞬に、真剣に向き合う。
ただ治療を施すのではなく、そのプロセスの中で、どれだけ、心に残る、温かいコミュニケーションを「演出」できるか。
その一瞬一瞬の積み重ねこそが、私たちの人生を、後悔ではなく、幸福と、充実で満たしてくれるのだと、私は、信じています。